獅子の仔

○学問所の前

屋敷の大きさの割には簡素な造りの門から、石塚十蔵(二四)と織部恭之助(二四)が出てくる。門には、『蘭学 深山喜右衛門』という看板。
旗本家の子弟が数人やってきて、二人とすれ違って門をくぐっていく。
連れ立って歩いていく十蔵と恭之助。

○通り

並んで歩いていく十蔵と恭之助。
雨がポツリと落ちてくる。空を見上げる十蔵。どんよりとした雨雲。

十蔵「…来そうだな」

見上げる恭之助。ポツポツ降ってくる。

十蔵「(ニヤリと笑って)雨宿りついでに、
 一杯やるか?」
恭之助「(呆れ顔で)またか?」

顎で、ちょうど見える所にある小さな構えの飯屋を指す十蔵。

十蔵「ちょうどいい所にある。どうだ?」
恭之助「この間もそう言ってだな…」
十蔵「いいじゃねぇか」

さっさと飯屋に向かっていく十蔵。

恭之助「(十蔵の背中に)だいたい、雨宿り
 するほど降ってないぞ」
十蔵「(振り返って)この雲行きじゃ、すぐ
 に大降りだ」

仕方なくついていく恭之助。縄のれんに、小さな『味さい』という看板を提げた店。

○小タイトル『雨降って』

○『味さい』の店内

意外と奥行きのある店内。通された卓に座っている二人。奥の座敷の席で、浪人が四人、飲みながら大声で話したり、笑い声を上げたりしている。
眉をひそめて、奥の浪人たちの振る舞いを見る恭之助。
盆に酒を載せて、女将のお道(二六)がやってくる。美人。

お道「はい、おまちどうさまでございます…」

すぐに、恭之助の視線に気付くお道。

お道「すいませんねぇ。この辺りでクダ巻い
 てるんですよ、みんなで。昼間っからいつ
 もアレなんですよ…」

しかめ面の恭之助。
雨に濡れた町人が店に駆け込んでくる。

お道「いらっしゃいまし!」

雨足が強くなっている。
酒を注ぎ合い、飲み始める二人。

十蔵「降ってきた降ってきた」
恭之助「嬉しそうに言うな」

○『味さい』の外

雨が激しく振っている。雨宿りの客が店に駆け込んでくる。

○『味さい』の店内

てんてこ舞いになっているお道と、もう一人の女、お清(二一)。
酒が終わり、片目を閉じて銚子の中を覗く十蔵。

恭之助「(笑いながら)すまん、酒を…」
お道「はーい! すぐ持って参ります!」
恭之助「(苦笑いで)別に急がんでいいぞ」
お道「はーい…」

忙しそうにバタバタしているお道。お清も別の客に料理の皿を運んでいる。
突然、奥の座敷から物凄い大声がする。

浪人・先崎「(怒声)早く酒持ってこいっ!」

あまりの大声で、賑やかだった店内が静まり返る。お道が慌てて奥から出てくる。

浪人・先崎「(怒声)何べん言ったら持って
 くるんだ? あぁ?」
お道「申し訳ございません! どうか…」
浪人・先崎「どうかもへったくれも無い!」

座敷から降りてくる先崎(三二)。酔いと怒りで顔が真っ赤になってる。勢いで、近くの椅子を蹴り倒す。

恭之助「止さないか!」

立ち上がっている恭之助。

先崎「(すごんで)なんだ貴様?」
恭之助「止さないかと言っている」
先崎「貴様ぁ、大人しく座っていろ…。後で
 後悔しても知らんぞ」
恭之助「・・・」

全く怯まない恭之助の表情。

先崎「なんだ、貴様。ヤル気か?」

座敷で、別の浪人、新堂(三三)が立ち上がる。

新堂「面白い。やってやる」

座敷から降りてくる新堂。

新堂「外は雨。濡れるのも面倒だな。ここで
 やってやる」

酔った嬌声が浪人たちから上がる。慌てて、近くに居た客が離れていく。
目の前の机と椅子を蹴り倒す先崎。
刀の柄を握り、鍔音を鳴らす恭之助。

新堂「本気のようだな。結構」

腰を落とし、柄に手を掛けて構えている新堂。にらみ合う恭之助と新堂。

お道「やめておくれ!」

毅然と、両者の間に立ちふさがるお道。その迫力に少し気圧される恭之助。

お道「やるなら外でやっておくれよ! こん
 な所で刃傷沙汰なんて御免だよ!」
恭之助「…しかし、女将…」
お道「(浪人たちに)帰っておくれ! お代
 は結構だから! 出てっておくれよ!」

フンと鼻を鳴らし、柄から手を離す新堂。

新堂「(仲間に)…行くぞ。興冷めだ」

ぞろぞろと出て行く浪人たち。

先崎「(恭之助に)命拾いしたな」
恭之助「(いきり立って)何だとぉ?」
十蔵「やめておけ」

恭之助を制する十蔵。

新堂「(お道に)客の扱いが悪いからこうな
 る。よく覚えておけ。我らはまた来るぞ…」

仲間を追って出て行く新堂。

お道「フンッ」
お清「(お道に駆け寄って)女将さん! 怖
 かった…」
お道「塩持っておいで」
お清「え? あ、はい!」

奥に駆けていくお清。
恭之助の腕を掴んで、引っ張る十蔵。

十蔵「座れ、いいから。もう行っただろう」
恭之助「…そうだな」

○織部道場の前 早朝

まだ日が昇る前の時間。『織部正次郎道場』という看板が下がった屋敷の門。中から、若々しい掛け声が聞こえてくる。

○織部道場・稽古場

朝稽古の最中。十代の若い門弟たちが、竹刀で激しく打ち合っている。師範役を務めている十蔵。

十蔵「振るのではなく、打つ! 身体全体!
 その一打ちに身体全体、即ち全身! 加え
 て気持ち! 相手を打つという気持ち、魂、
 即ち全霊! 全身全霊! そこまで込めて
 打ち込め!」

向き合って打ち合っている、一色延久(十五)と窪田弥太郎(十五)。窪田の鋭い打ち込みに、防戦一方の延久。

十蔵「そこまで! 一旦、そこまで!」

稽古を止める門弟たち。息を整えたり、汗を拭ったりしている。

十蔵「相手代え!」

窪田と延久の二人の様子を見ている十蔵。
稽古を楽しみ、表情にも自信が感じられる窪田。背中を丸め、力のない眼をしている延久。
視線を、稽古場全体に戻す十蔵。

十蔵「始め!」

気合の声が一斉に上がる。新しい相手と打ち合い始める、若い門弟たち。

○織部道場・門の内側

当番の門弟たちが稽古場の外を竹ぼうきで掃いている。敷地の奥から、裃姿の恭之助が出てくる。

門弟の一人「あ、若先生」

会釈する門弟たち。

恭之助「ご苦労さん」
門弟の一人「いってらっしゃいませ」

門を出て行く恭之助。

○『味さい』の前

まだ暖簾を出す前。戸は大きく開いていて、中で、お道が慌しく仕度をしている。

○店の中

十蔵が現れ、入ってくる。手に、風呂敷包みを抱えている。

十蔵「ごめん…」

驚くお道。

お道「あ、申し訳ございません。ちょっと仕
 度が間に合いませんで…。まだなにもご用
 意出来ないんですよ…」
十蔵「いや、それは結構なんだが…」
お道「(十蔵の顔に気付いて)あ、あの、こ
 の間のお侍様ですね? あの時は失礼を致
 しました…」

頭を下げるお道。

十蔵「いや、いいんだ。…忙しそうだな?」
お道「はい。ウチの者が一人、腹を下して寝
 込んでしまいまして。人手が足りないので
 ございますよ…」
十蔵「なるほど。(頷いて)いや、先日の侘
 びにと思って寄ったのだ。ついでだ…」

○同・炊事場

たすき掛けの姿で、大根の葉を包丁で刻んでいる十蔵。大きな鍋の蓋を開け、刻んだ菜っ葉をザバッと放り込む。

○店の前

暖簾を出すお道。

○炊事場

かまどに薪をくべている十蔵。

お道が台所に入ってくる。
お道「…旦那様、もう、十分でございますの
 で…」
十蔵「(立ち上がって)薪が足りないようだ
 な。いつも繁盛してると見える。手が回ら
 んのだろう?」
お道「…はぁ」

○同・裏庭

薪を割っている十蔵。

○同・店内

何組か、客が入っている店内。

○同・裏庭

小さなお盆にお茶を載せてやってくるお道。顔を上げる十蔵。

お道「旦那様、どうぞご一服して下さいまし」
十蔵「おぉ」

立ち上がる十蔵。

十蔵「どうだ、ちょっとは手が空いたか?」
お道「(笑って)はい。なんか、今日は客の
 入りがあまり良くないみたいで。良いんだ
 か悪いんだか…」
十蔵「そうか。それなら、すまないが、俺も
 ちょっと腹が減ってきてな」
お道「あ、あぁ! それなら…」
十蔵「何か、店で出してる物を喰わせてくれ
 んか。お代は払うぞ」
お道「やだ、早く言って下さいな…」

慌てて、店の中に戻っていくお道。

○同・奥の部屋

店ではなく、居室の座敷。膳を出された十蔵が一人で、旨そうにご飯をかきこんでいる。

○同・店の前

行商人が、店から出てくる。

お道の声「どうも、毎度さまですー」

○同・店の中

何組かの客がいっぺんに入ってくる。

お道「(慌しく)はい、いらっしゃいまし!
 どうぞ、空いてるお席へ」

○同・奥の部屋

食事を終え、お茶をすすっている十蔵。欠伸をする。
  × × ×
お道が部屋にやってくる。畳に横になって居眠りしている十蔵。
気付いて、静かに戻っていくお道。

○織部道場・稽古場

門弟たちが稽古している。少年たちの朝稽古とは少し違う熱気。青年から壮年まで、歳の幅は広い。
一番奥の見所に、道場の主、織部正次郎(四五)が座っている。
じっと稽古の様子を見ている正次郎。高弟の宮城(三五)が、傍に立っている。
門弟の山村(二八)が宮城に声を掛ける。

山村「宮城殿。今日は、十蔵殿はお休みでご
 ざるか?」
宮城「そうみたいだな。手合わせしたいと?」
山村「(残念そうに)はぁ。今日こそは、せ
 めて一本でもと…」
宮城「(ニヤリと笑って)俺がいるだろうが。
 それとも、俺では不足か?」
山村「(恐縮して)いえ、とんでもございま
 せん。宜しければ是非お手合わせ願います」
宮城「よし。やろう」
山村「(表情が引き締まって)よろしくお願
 いします」

正対し、気合の声を発する両者。

○『味さい』奥の部屋

寝入っている十蔵。(F/O)

○(F/I)織部道場・稽古場の外 早朝

朝稽古が行われている稽古場。若い門弟たちの気合の声と十蔵の声が響いている。

○同・稽古場

門弟たちが竹刀を構えて、互いに打ち合っている。
窪田と延久の組に視線を止める十蔵。
窪田に竹刀を打ち落とされてしまう延久。

十蔵「(厳しい口調で)何だ今のは!」

口惜しそうに、竹刀を拾い上げる延久。
十蔵の剣幕に、門弟たちの動きが止まる。

十蔵「…今朝、つい今しがた、何の為にそこ
 の敷居を跨いだんだ? 延久、気が無いの
 なら帰れよ…」
延久「・・・」
十蔵「相手にも失礼であろう。例え先生の縁
 者であっても、打つ気が無いのなら、お前
 にここに立つ資格はない。分かったな?」
延久「はい」
十蔵「たいして難しいことでもあるまい。改
 めて、肝に銘じておけ」
延久「はい」
十蔵「窪田、相手を代えろ。力を抜いて稽古
 をしても、実りは得られんぞ」
窪田「・・・」
十蔵「親しき友だからか? ならば尚更だ。
 遠慮するくらいなら組まない方が良い。相
 手を代えろ」

俯いてしまう窪田と延久。

○同・縁側

母屋の縁側を、道場の稽古場に向かって歩いていく正次郎。

○小タイトル『賢兄愚弟』

○同・稽古場

戸が開き、正次郎が入ってくる。
門弟たちは壁際に退いていて、十蔵と窪田が木刀を構えて向き合っている。気合の声を上げる窪田。
上座に座る正次郎。
気合を発しながら、十蔵に迫って打ち込む窪田。受ける十蔵。

十蔵「(押し返しながら)まだまだ!」
窪田「イヤーッ!」

違う軌道で打ち込む窪田。受け止め、間髪入れず打ち返す十蔵。その一撃を必死の形相で受け止める窪田。
眼が合うだけで後退しそうな十蔵の圧力に、気合の声を上げて抗いながら、何度も打ち込み続ける窪田。それを受け止め、余裕を持って間を取る十蔵。
二人の攻防に、門弟たちから感嘆の声が漏れる。一番隅で、十蔵に向かっていく窪田の姿を見ている延久。
構えた窪田の木刀がほんの少し揺れた瞬間、一気に間を詰め、振り下ろす十蔵。寸止めで止める。

正次郎「そこまで」

○同・門の外

三々五々、稽古を終えた門弟たちが門から出てくる。

○同・門の内側

当番の門弟が竹ぼうきで掃いている。

○同・稽古場

正次郎が、正座している窪田に話している。十蔵も窪田の脇に座っている。

正次郎「…ここ幾月かで腕を上げたな」
窪田「はいっ! ありがとうございます!」
正次郎「なかなかよい剣になった。だが、ま
 だまだ足りない所もある。例えば一つ、分
 かるか?」
窪田「…体が流れる癖があると…」
正次郎「十蔵に言われておるか?」
窪田「はい。そこがわたくしの剣の穴だと…」
正次郎「なら良し。今はな。稽古を重ねて穴
 を埋めればよい」
窪田「はい。ありがとうございます」
正次郎「…学問所の方はどうだ? ちゃんと
 通っているか?」
窪田「はい。今日も講義がございます」
正次郎「(頷いて)そうか。なら良い。今日
 までの成果、生かすも殺すも、己の精進次
 第だ。今日からのな。それを忘れるなよ」
窪田「はい。ありがとうございます」

頷く正次郎。

○同・中庭

母屋から、裃姿の恭之助が出てくる。
中庭の一角では、正次郎が上半身裸になって、木刀で素振りをしている。

門弟の一人「おはようございます、若先生」

中庭の掃除をしていた門弟が恭之助に頭を下げる。

恭之助「…父上、おはようございます」
正次郎「おう。もうそんな刻か?」
恭之助「はい。行って参ります」
正次郎「うむ…」

○通り

通りを歩いていく十蔵。

○『味さい』の前

まだ暖簾を出していない店の前。お清が水を撒いている。十蔵がやってくる。

お清「あ、旦那様。お早うございます」
十蔵「(笑顔で)おう」

店の中に入っていく十蔵。

○『味さい』奥の部屋

二人分の膳を並べているお道。手ぬぐいで顔を拭きながら部屋に入ってくる十蔵。

お道「…お稽古が長引いたんですか?」
十蔵「まぁな(膳を見て)お、旨そうだな」
お道「当たり前ですよ。旨いものしか出して
 ないんですから」
十蔵「(笑って)そうだな。すまんすまん」

並んで座り、朝飯を食べ始める二人。

○城門の中

城勤めの役人たちがまばらな列を作っている。その中に恭之助の姿もある。後から声を掛けられる恭之助。

男の声「織部殿、恭之助殿…」

振り返る恭之助。石塚道成(二九)がいる。

恭之助「あ、石塚様。おはようございます」

○城内の廊下

並んで歩く恭之助と道成。

恭之助「…それでは、十蔵は、お屋敷には全
 く…」
道成「(苦々しげに頷いて)そうなのだ…。もうひと月も寄りつかん。全く、十蔵の奴、どこに巣を作っておるのか…」

○同・奥の部屋

爪楊枝片手に、お茶をすすっている十蔵。

○城内の廊下

恭之助「…道場には参っておるのですが…」
道成「欠かさず?」
恭之助「は。今朝も、先程まで稽古を見てお
 りました。若い門弟たちを相手にの朝稽古
 ですが。…その、いつも道場にはしっかり
 と…。父も日頃から、十蔵には任せておけ
 ると申しております」
道成「うむ、織部先生にご迷惑をかけなけれ
 ば、まだ良いのだがな。前までは、三日に
 いっぺんくらいは顔を見せていたのだ。し
 かし、此処ひと月くらいはそれすら無くなっ
 てしまってな。…十蔵め。今さら放蕩など
 と言う気もないんだが…。…いや、お恥ず
 かしい話…」
恭之助「いえ、しっかりとお伝え申します、
 十蔵には。父の耳にも入れておきますので」
道成「宜しく、お頼み申す…」

○『味さい』裏手

襷がけをして、鉈で薪を割っている十蔵。
炊事場を預かる料理人の安兵衛が、籠を手に裏手にやってくる。

十蔵「おい、安兵衛。最近腹の具合はどうだ
 ?」
安兵衛「へい、大丈夫でございます。さすが
 に…」
十蔵「(笑いながら)そりゃそうか。もう大
 分経つものなぁ」
安兵衛「へい、もう…」

十蔵の軽口に恐縮している安兵衛。井戸で冷やしていた野菜を上げる安兵衛。

○店の前

縄のれんを出すお道。

○学問所の前

深山先生の蘭学の学問所。

○講堂

広い板の間に、若い門下生たちが机を並べて、深山先生の講義を聞いている。窪田と延久もいる。
先生の講義に合わせて、生徒たちが一斉に教本の頁を捲るが、延久だけ手が動かない。心ここに在らずの延久。
チラッと延久の様子を見る窪田。

○学問所の前

講義を終えて、外に出てくる門下生たち。延久も出てくる。一人で、トボトボ歩いていく延久。

○一色家の屋敷の前

延久がやってきて、潜り戸をくぐって、大きな武家屋敷の中に入っていく。

○屋敷の中・延正の居室

部屋の真ん中に布団が敷いてある。縁側の日が当たる所に、寝巻き姿の延正(十九)が胡坐をかいて座っている。

○同・縁側

延久が自室に向かって歩いていく。延正の姿がある。

延久「兄上」
延正「おぉ、延久」
延久「いいのですか、横になっていなくて」
延正「いや、今日はなんだか、具合が良くて
 な…」
延久「(心配そうに)しかし…」
延正「陽が当たって暖かい。良い心持ちだ…。
 陽の光とはいいものだな。…どうだ、稽古
 にはちゃんと通ってるのか?」
延久「はい」

兄の横に腰を下ろす延久。

延正「十蔵先生は元気か?」
延久「はい。若先生も大先生も皆お元気です」
延正「そうか。なによりだな。…稽古の様子
 はどうだ?」
延久「…弥太郎、覚えておりますか?」
延正「(意外そうに)おぉ。まだ通ってきて
 るのか? 音を上げずに?」
延久「…大先生に褒められておりました。腕
 を上げたと…」
延正「(笑って)あの弥太郎がか? そうか
 …、あのへっぴり腰が…。それは驚きだな」
延久「もう、わたくしは敵いません。私には、
 兄上とは違って、剣の才はないようです…」
延正「(笑って)なに、これから研鑚すれば
 いいだけのこと。違うか? 俺も十蔵先生
 に良くそう言われた。…懐かしいな、あの
 大声が。俺も良く怒鳴られた…」

笑みを浮かべるが、ゴホゴホッと咳き込んでしまう延正。慌てて背中に手を差し伸べる延久。

延久「さ、中へ。外の風も過ぎては良くあり
 ませぬ」

頷いて、部屋の中に入っていく延正。

○同・延正の居室

延正が布団に横たわるのを、手を添えて支えてやる延久。掛け布団をかけてやる。

○織部道場・稽古場

門弟の一人を相手にして打ち合っている十蔵。気合に満ちた表情。

宮城が稽古を見守っている。
十蔵「まだまだぁ! お主、そんなもんでは
 なかろう!」

掛け声を発して、十蔵に打ち込んでいく門弟。

○織部道場の前

裃姿の恭之助が、勤めから帰ってくる。

○同・恭之助の自室

裃と紋付を脱いでいる恭之助。十蔵の声がここまで聞こえてくる。

十蔵の声「どうしたぁ! 次、次!」

○同・稽古場

門弟に稽古をつけている十蔵。
着替えた恭之助が稽古場に現れる。すぐに、宮城が恭之助に気付く。

宮城「…若。お帰りですか?」
恭之助「はい。(十蔵を見て)今日もやって
 ますね」
宮城「(苦笑いで)最近特に手が付けられん
 のです。…昔の先生のようですぞ。わたく
 しもああやって稽古を付けてもらったもん
 です…」
恭之助「…そうですか…」

寂しそうな笑みを浮かべる恭之助。眼を細めて稽古の様子を見ている宮城。
下から掬い上げてきた相手の木刀をかわし、木刀を打ち落とす十蔵。

十蔵「悪くないぞ、今のは!」

○同・中庭

稽古場では門弟たちの稽古が続いている。井戸の水で顔を洗った十蔵。縁側に立っている恭之助と話している。

十蔵「(手拭いで顔を拭きながら)何だ、何
 かあったのか?」
恭之助「今日、お城で道成殿にお会いしてな」

面倒くさそうな顔になる十蔵。

恭之助「たまには帰って来いと申されていた。
 どこに巣を作っているのやらとな…」
十蔵「それしか言わんな、兄上は」
恭之助「帰ってないのか、お屋敷には」
十蔵「…今に始まったことでもなかろうが」
恭之助「三日にいっぺんは顔を見せていたの
 が、今はそれも無いと…」
十蔵「・・・」
恭之助「(声を潜めて)十蔵、お前、よから
 ぬ処に寝泊りしているのであるまいな?」
十蔵「(不愉快そうな口調で)兄上は元気そ
 うだったか?」
恭之助「ああ。お変わりない様子だった」
十蔵「ならいい。こっちも元気だと伝えてお
 け、今度会ったらな。それで十分だ」
恭之助「十蔵…」
十蔵「お前こそ、もう少し稽古に顔を出せ。
 我らが織部道場の跡取りだろうに。腕が鈍っ
 ても知らんぞ。いくらお前でも眼やら足先
 やらは鈍るだろう。跡取りがそんなことで
 は困る」
恭之助「・・・」
十蔵「第一、お前に稽古を付けて欲しいとい
 う連中もいる。そういう連中の為にも、顔
 だけでも出せ」

恭之助を置いて、稽古場に戻る十蔵。
憮然とした表情の恭之助。

○石塚家の屋敷・台所

湯浴みを終えた道成が、台所に顔を出し、下女の千代(四〇)に声を掛ける。

道成「(苦い顔で)…十蔵は、帰ったか?」
千代「いいえ。わたくしは今日もお見かけし
 ておりません」
道成「そうか…」
千代「なにか…?」
道成「いや、なんでもない。…あいつがどこ
 をほっつきまわっておるか、何ぞ心当たり
 はあるか?」
千代「(意外そうに)十蔵様のことでござい
 ますか? (首を振って)いいえ…」
道成「そうか…。全く、十蔵の奴め…」

○『味さい』奥の部屋

お道と膳を並べて、夕飯を食べている十蔵。もりもり喰っている。

お道「(呆れ顔で)よく喰うねぇ、しかし」
十蔵「旨いからだよ、飯が」
お道「それは当たり前。いちいち言わなくて
 もよござんす」

笑う十蔵。(F/O)

○(F/I)織部道場・稽古場

門弟の山村に稽古を付けている十蔵。二人とも木刀を構えている。気合を発して、激しく打ち込む山村。
受ける十蔵は、掛け声は鋭く発するものの、表情にはどこか、楽しんでいる余裕がある。
見所には正次郎が、その脇には宮城と恭之助が立っている。他の門弟たちも十蔵と山村を見守っている。

宮城「(正次郎に、小声で)なかなかのもん
 ですな」

頷く正次郎。

恭之助「(宮城に、小声で)山村殿ですか?」
宮城「(首を振って)いや、十蔵です。ああ
 やって打ち合いながら、山村の内に眠る力
 を揺さぶっておるのです。追い込みながら、
 山村の本当の力を目覚めさせようとしてい
 る。このような稽古、なかなか出来るもの
 ではありませんよ」
山村「おりゃぁー!」

床を蹴って十蔵に向かっていく山村。真正面から受け止める十蔵。
両者がぶつかり合った後、離れた時には、山村の木刀が飛び、十蔵の寸止めが脇腹に触れている。

正次郎「そこまで!」

○茶屋の前 夕方

掘割りを背にして建っている売春宿。
『こだま』と書かれた提灯が下がっている。町人が一人、店からでてくる。

○小タイトル『おなご』

○『こだま』・二階の一室

女郎のお小夜(二三)の膝枕で、乱れた布団の上に横になっている延久。盆を引き寄せ、手酌で酒を一杯飲むお小夜。

延久「…お小夜」
お小夜「あい?」
延久「・・・」
お小夜「(優しい声で)なんですか?」
延久「…なんでもないよ」
お小夜「(笑って)なんですか?」
延久「いいや…」

体をひねり、お小夜の腹に顔をうずめる延久。延久の肩に手を当て、あやすように、優しくポンポンと叩いてやるお小夜。

○『こだま』の前

痩身で色白、貧相な顔つきの侍が店の中に入っていく。名前は杉田(二八)。

○『こだま』の中・玄関

狭い土間のある玄関。番頭格の男と話している杉田。がっかりとした顔になり、肩を落として店を出て行く。

○『こだま』の前

残念そうな、口惜しそうな顔で帰っていく杉田。

○『こだま』の中・小部屋

玄関の脇の小さな部屋で、浪人、鹿島源六(三五)が、『こだま』の主の婆と話している。

鹿島「今日はどっちだ?」
婆「なんのことだい?」
鹿島「お小夜の相手だよ。あの若ぇのか、そ
 れとも、うらなりの方か?」
婆「…さあね。払いさえしっかりしてりゃ、
 誰だって一緒だよ。(鹿島の顔を見て)お
 小夜の事は別に構わないけどね、この店を
 ガシャガシャさせないでおくれよ。ウチは
 今までも大人しくやってきたんだからね」
鹿島「心配するな。何もだいそれた事をする
 わけじゃねぇ。むしろ、聞く話じゃあ、よ
 くある事じゃねぇのか? あ? 婆ぁ。ど
 うなんだ?」

フンと鼻を鳴らす婆。

鹿島「分かってるさ。迷惑はかけねぇよ。そ
 れは約束する」
婆「ホントかね。信用できんよ」
鹿島「フッ、言ってくれるじゃねぇか」
婆「…お小夜はね、あれでも苦労してきてる
 娘なんだよ。あんたみたいのがね、ああい
 う娘を幸せに出来るハズがないのさ。分か
 るんだよ、ここまで歳とればさ」
鹿島「…お言葉、ありがたく頂戴するぜ。言っ
 てみりゃぁ、お小夜の親代わりみてぇなも
 んだもんな、婆さんは」

フンと鼻を鳴らす婆。

○『こだま』・二階の一室

延久を揺すっているお小夜。

お小夜「(言って聞かせるような口調で)も
 うお帰りにならないと。お父上に叱られま
 すよ」

ブスッとした顔で起き上がる延久。

お小夜「またすぐいらしてくれるんでしょ」
延久「うん…」

○織部道場の前

十蔵と宮城が連れ立って出てくる。

○通り

並んで歩いていく二人。

宮城「…近頃やけに元気だな、十蔵。(ニヤ
 リと笑って)なんぞ、いいことでもあった
 のか?」

道場での真剣な表情とは違って、世間なれした、くだけた物腰と口調の宮城。

十蔵「さすが宮城さん。分かりますか?」
宮城「十蔵。俺を誰だと思ってるんだ?」
十蔵「これは、失礼しました」

笑う二人。

十蔵「どうですか? ちょっと。ご足労願え
 れば、お話でも…」
宮城「いいな。話の内容によっては飲み代は
 お前もちだぜ」
十蔵「いいですよ」

○『味さい』の前

十蔵と宮城がやってくる。暖簾をくぐって店に入ろうとする二人。
ちょうど、お清が外に出てきて、十蔵に気付く。

お清「あら、旦那さま。お帰りなさいまし」
十蔵「おう」

驚いた表情で十蔵の顔を見る宮城。

宮城「…『お帰りなさいまし』って、どうい
 うことだ?」
十蔵「(ニヤリとして)だいたいそういうこ
 とですよ」
宮城「なにぃ」
お清「(不思議そうな顔で)どうぞ?」

頷いて、店の中に入っていく十蔵。宮城もその後から入っていく。

○味さいの店内

卓の一つで酒を飲んでいる十蔵と宮城。
ニヤニヤ笑っている宮城。

十蔵「…本人曰く、出戻りなんですけど…」
宮城「んなこと関係ねぇよ。男と女のことに
 いちいち昔のことほじくり返したって、い
 いこたぁねぇんだから」

ウンウンと真剣な顔で頷いている十蔵。

宮城「なるほどね。ま、十蔵。オメェらしい
 と言えばらしいよ。相応しいかどうかは別
 にしてな」
十蔵「俺には、過ぎる女ですか?」
宮城「逆だよ。オメェはな、腐っても御旗本
 の御家の御身分だぜ…。毛並みだけじゃな
 くて、腕も抜群と来てる。面だって悪かね
 ぇ。婿を探してる話なんてゴロゴロあるん
 だぜ、世間には…」
十蔵「・・・」
宮城「ま、それでも、良いおなごなのは違ぇ
 ねぇな…。正直、羨ましい気持ちはあるぜ」
十蔵「(嬉しそうに)そうですか? 宮城さ
 んにそう言ってもらえると…、悪い気はし
 ないですね」
宮城「なにが『言ってもらえると』だよ。ウ
 チの奥方と比べたら、月とすっぽんの尻尾
 だよ」

笑う二人。

宮城「幸せにしてやれよ。…剣術使いの女房っ
 てのは、あんまり良い思いはしねぇっての
 が相場だからよ…。祝言挙げんなら力にな
 るぜ。色々面倒クセェ事もあるからな…」
十蔵「ありがとうございます」
宮城「まぁ、オメェもいつのまにかいい歳だ
 もんな」
十蔵「…先生は何て仰いますかね?」
宮城「それは…(間)分からんな…。それは
 分からん。俺の縁談の時には何も仰らなかっ
 たが…。オメェは、その、若とのあと先み
 てぇのもあるからな。…だいたい、若はど
 うなんだよ? そういう、色っぽい話はあ
 んのかよ?」
十蔵「(首を傾げて)ないハズはないんです
 けどねぇ」
宮城「(首を傾げて)お顔はスッとしていい
 男だ。毛並みだってもちろん悪かねぇし、
 腕は抜群。お勤めだってまずまずって話だ。
 お人柄だって素晴らしい。オメェ、無いハ
 ズねぇだろ?」
十蔵「はぁ」

○織部道場・恭之助の自室

部屋の真ん中に正座で座り、蝋燭の明りで書物を読んでいる恭之助。

○石塚家の屋敷・台所

片づけをしている千代に問いただしている道成。

道成「…今日も顔を見てないのか?」
千代「はい」
道成「十蔵め…。どこにいるかも見当つかぬ
 か?」
千代「はい。申し訳ありません」
道成「いや、謝ることではない。悪いのは十
 蔵じゃ」

困った顔をしている千代。

道成「(舌打ちして)あのうつけ者は…、ど
 こにおるのじゃ…」

○『味さい』・奥の部屋

並んで寝ようとしている十蔵とお道。十蔵はもう布団の中に入っている。

お道「…へぇ、それならもっとちゃんとご挨
 拶しておいた方が良かったねぇ。なんか忙
 しい時にお見えになったもんだから…」
十蔵「まぁ、いいさ」
お道「また連れてきておくれよ」
十蔵「そうだな…」
お道「消すよ…」

行燈の火を吹き消すお道。

お道の声「あたしのこと、なんか言ってたか
 い?」
十蔵の声「フフッ、気になるか?」
お道の声「そりゃそうだよ。あんたが世話に
 なってるお人だろ? 良く言ってるじゃな
 いか、そうやって」
十蔵の声「いい女だってよ。俺のことがが羨
 ましいって」
お道の声「あれ、ホントかい? いいお人だ
 ね、ホントに」
十蔵の声「だろ?」

ガサガサと音がする。二人が重なりあっている。(F/O)

○(F/I)織部道場

誰もいない稽古場。ガランとしている。

○『味さい』店内

踏み台に乗って、小さな神棚の埃をはたいているお道。

お道「…今日はどうしたんだろうねぇ。さっ
 ぱりだねぇ」

新しい竹ぼうきを持ち出しているお清。

お清「そうですねー」

表に出て行くお清。

○『味さい』の前

竹ぼうきで店の前を掃いているお清。
宮城がやってくる。店の中に入っていく宮城。

お清「いっらしゃいましー」

○小タイトル『世話焼き、焼きもち、もちは餅屋』

○『味さい』店内

すぐに、宮城の顔に気付くお道。

お道「あら、この間の、宮城様」
宮城「どうも、お道さん。ここ、いいかい?」
お道「あら、どうぞどうぞ」

卓に座る宮城。

宮城「十蔵はいるかい?」
お道「あら、今日はなんでも、出稽古に出掛
 けるとやらで…」
宮城「あー、そうかい。そりゃぁ…」
お道「お会いに来て下すったのですか?」
宮城「まぁ、そのつもりで来たのだがな…」
お道「今日はお稽古はお休みなんでございま
 すか?」
宮城「そういうことだ。珍しくな。…ん? 
 今日は、どうやら手が空いておるようだな」
お道「はい。そうなんでございます」
宮城「良かったら、お道さん。ここへ座って、
 お相手でもしていただけないかな?」
お道「よろしいんですか?」
宮城「いいとも」

○別の道場

織部道場とは違う稽古場。十蔵が、薙刀を構えている袴姿の女と対峙している。
甲高い気合の声と共に打ちかかってくる薙刀をかわす十蔵。
女性たちの薙刀術の稽古相手を務めている十蔵。

○『味さい』・店内

宮城のお猪口に酒を注ぐお道。他の客の姿はない。

宮城「…なに、心配いらねぇよ。十蔵はお前
 さんにぞっこんだよ」
お道「(不満顔で)ホントですか?」
宮城「(笑って)疑っておるのか、十蔵を」
お道「いえ、そうじゃないんですよ、宮城様。
 そうではなくて…」

口ごもるお道。

宮城「どうした?」
お道「…お気持ちを悪くなさらないで下さい
 よ?」

頷く宮城。

お道「…やっぱり、あの人には、剣術が一番
 なのでございますよ。…宮城様もそうじゃ
 ありませんか?」
宮城「なるほど…。そうか…」
お道「別に、焼きもちって言うんじゃござい
 ませんよ。けど…」
宮城「そう、だな…。分かる」
お道「そうなんでございますよ…」
宮城「そりゃぁ、まぁな。しょうがないと言
 えば…」
お道「しょうがないんでございますかねぇ?」
宮城「うーん」

首を捻っている宮城。

○道場の稽古場

薙刀遣いの稽古相手を務めている十蔵。

○『味さい』店内

腕組みして、難しい顔をしている宮城。溜め息をついているお道。

宮城「…そのことに関しては、正直、あんま
 り力にはなれんなぁ」
お道「いえ、いいんですよ、宮城様。分かっ
 てることですから…」
宮城「うーん…。どうにか、なぁ。…ならん
 なぁ。こればっかりは…」
お道「しょうがないことでございますもんね
 ぇ…」
宮城「うーん」

○『味さい』の前 夜

暖簾をしまうお清。

○『味さい』奥の部屋

いつものように、並んで床に就こうとしている十蔵とお道。

お道「…今日のお稽古はどうだったんだい?」
十蔵「(疲れた声で)いやー、堪ったもんじゃ
 ないぞ、全く。毎度毎度、あそこの稽古は
 堪らん」
お道「(笑って)どうしたんだい?」
十蔵「お武家のおなごが相手でな。気合やら
 掛け声やらが甲高いのなんの。耳鳴りする
 くらいな…」
お道「(笑いながら)消すよ…」

行燈の火を吹き消すお道。

十蔵の声「お前の声なら、耳に煩いことなど
 ないのになぁ」

ククッと笑うお道。重なり合う二人。

○織部道場・中庭 朝

朝稽古が終わった後。井戸で水を汲んで水浴びをしている十蔵。宮城も水を浴びにやってくる。

十蔵「あ、宮城さん。昨日はすいません。留
 守にしてまして」
宮城「おう、聞いたよ。出稽古だってな」
十蔵「はい。頼まれていたので…」
宮城「精が出るな。…ところで、十蔵」
十蔵「はい?」
宮城「…お道さんとは、その後どうなんだ?」
十蔵「『どう』とは?」
宮城「いや…、上手くやってるのか?」
十蔵「(ニヤリと笑って)やってますよ」
宮城「そうか…」
十蔵「(ニヤニヤしながら)昨夜も、半刻ほ
 ど、たっぷり。仲良く」
宮城「・・・」
十蔵「ご心配なく、宮城さん」

稽古場の方に戻っていく十蔵。拍子抜けしたような顔の宮城。苦笑いで、額をポリポリ掻く。(F/O)

○(F/I)城内・御役目部屋

裃姿で机に向かっている、勤務中の恭之助。書き物をしている。
ふと、手を止め、宙をみつめる恭之助。

○織部道場の前 夕方

勤めから帰ってくる裃姿の恭之助。

○織部道場・恭之助の自室

裃を脱いでいる恭之助。

○小タイトル『トンビの仔の鷹、鷹の仔の鷹』

○同・稽古場

門弟に稽古を付けている宮城。門弟の激しい打ち込みを受けている。

宮城「今の踏み込み、良し! 忘れるな! 
 勝負を決する氣を込めて打ち込め!」

戸が開いて、稽古着姿の恭之助が入ってくる。
門弟の木刀をガッチリ受ける宮城。見所に座る正次郎が声を発する。

正次郎「そこまで!」

離れる両者。正次郎の脇にいた十蔵が進み出る。

十蔵「代わりましょう」
宮城「ん? もうか?」
十蔵「いいでしょう、宮城さん。十分休みま
 したよ」

宮城を押しのけるように、稽古場の真ん中に進み出る十蔵。
門弟たちの間から、一人進み出てくる。

門弟「お願いします」
十蔵「おう」

打ち合い始める門弟と十蔵。
十蔵の姿を見つめる恭之助。
十蔵が打ち稽古をしている間に、壁に掛かっている木刀を掴む恭之助。
  × × ×
別の門弟と稽古している十蔵。相手を十分攻めさせた後、鋭く打ち込んで、木刀を叩き落す。
次の門弟が進み出る。

次の門弟「お願いします」
十蔵「おう! こい」

  × × ×
別の門弟と打ち合っている十蔵。十蔵に激しく打ち込んでいくその門弟。真正面から受け止めている十蔵。
鍔迫り合いで、腕の力で十蔵にグッと押され、抗えず後に下がってしまう門弟。間合いが開く。肩で息をしている門弟。
一気に肉薄して、寸止めで木刀を振り下ろす十蔵。正次郎の声が掛かる。

正次郎「そこまで」
門弟「(苦しそうに)…ありがとうございま
 した」

恭之助が進み出る。
恭之助「十蔵。代わろう」
十蔵「おぉ、いたのか。いや、まだ大丈夫だ、
 俺は」
恭之助「いいじゃないか。俺もやる」

渋々引き下がる十蔵。稽古場の真ん中に進み出る恭之助。
  × × ×
門弟の一人と構えあっている恭之助。
恭之助の立ち姿を見つめる宮城と正次郎。十蔵も、じっと見ている。

門弟「イヤァーッ!」

恭之助に向かって打ち込む門弟。流すようにその一撃を受ける恭之助。ススッと斜めに後退し、間合いを取る。
恭之助を追って、踏み込んで打ちかかる門弟。受け流し、ススッと後退する恭之助。
再び打ちかかる門弟。同じように受け流し、いったん後退した直後に前へ跳び、踏み込んできた門弟に逆に打ちかかる恭之助。
一瞬後、木刀が吹っ飛び、床に倒れている門弟。何が起きたか分からない様子で、天井を見上げている。
門弟たちの間からホゥという溜め息が漏れる。
感心した顔で頷いている宮城。
  × × ×
次の門弟が構えている。その木刀が微かに揺れた瞬間、一気に踏み込んで、寸止めで胸元に切っ先を突きつける恭之助。

正次郎「そこまで!」

恭之助に向かって打ち込んでくる、別の門弟。ススッと後退しながら、踏み込んでくる相手と間を読んで腰を落とし、下から木刀を掬い上げる恭之助。
門弟の左の脇腹に、寸止めで木刀を当てる。

宮城「代わろう…」

進み出る宮城と代わる恭之助。
下がる恭之助に声を掛ける十蔵。

十蔵「お前の切れ味には惚れ惚れするよ、い
 つ見ても。全く。敵わんな、お前には」
恭之助「・・・」

宮城の稽古を見る恭之助。十蔵も視線を戻す。

正次郎「(小声で、恭之助に)…お前の稽古
 ではないのだぞ、恭之助」
恭之助「・・・」
正次郎「…それに、今も息が上がっておろう。
 …鍛錬不足にも程がある」
恭之助「・・・」
正次郎「…磨かぬば、錆びるのは早いぞ。…
 己のことが分からぬお前ではあるまい」

  × × ×
宮城から再び十蔵に代わり、門弟たちと次々に打ち合っていく。
十蔵の姿をじっと見つめている恭之助。
  × × ×
十蔵の打ち稽古中。恭之助の様子をチラッと窺う宮城。進み出る気配はない。
進み出て、十蔵と代わる宮城。
肩で息をしながら、壁際に下がる十蔵。汗を拭う。

宮城「よし、来いっ!」

  × × ×
呼吸が戻っている十蔵。進み出て、宮城と代わる。表情に疲れは全く見えない。

十蔵「次!」

  × × ×
隅にロウソクの灯が揺れているだけの、暗い稽古場。恭之助が独り、誰もいない稽古場の真ん中に立っている。
木刀を握っている右手をじっと見つめている恭之助。

○同・稽古場

見所に座った正次郎が、正座している恭之助に話している。

正次郎「…確かに、一瞬の勝負なら、お前は
 相手に勝るだろう。どんな相手でも。しか
 し、剣の道とは、相手との勝負に勝ること
 だけではなかろう。目の前の相手を圧倒す
 るだけのものではない」
恭之助「…重々、承知しております」
正次郎「…剣の道とは、日々修練を重ねるこ
 とに他ならない。お前の技量は認める。ワ
 シの倅であることを差し引いても、お前の
 腕は優れている。しかしそれは、目の前の
 相手に対してでしかない。目の前の相手に
 対して勝っているだけでしかない。言って
 おる意味が分かるか?」
恭之助「(頭を下げて)…分かっております」
正次郎「・・・」

○同・稽古場

暗い稽古場に、独り立つ恭之助。
木刀を構える。切っ先を見つめる恭之助。

○同・稽古場

門弟の必死の攻撃を受け止めている十蔵。

十蔵「(その門弟に)いいぞ! 今の一撃良
 し! その覚悟で打ち続けろ!」

  × × ×
別の門弟と打ち合っている十蔵。

十蔵「逃げるなぁ! 前に出て来い! 打っ
 て来い!」

気合の声を上げながら、十蔵に向かっていくその門弟。

○同・稽古場

暗い稽古場で、木刀を握り締めている恭之助。(F/O)

○(F/I)『味さい』の前 朝

朝稽古を終えた十蔵が帰ってくる。
お清が、店の前で、自分が掛けた暖簾の下で困った顔で立っている。入り口の戸は閉まっている。

十蔵「おう、お清」
お清「(小声で)あ、十蔵さま」
十蔵「どうした?」
お清「…なんか、女将さんに、お客さんが…。
 入りにくいんです…」
十蔵「何故だ? 客なんていつも…」
お清「いえ、そっちのお客さんじゃなくって、
 …昔からのお知り合いの方のようで」
十蔵「ほう」
お清「…なんだか、人相の悪い人で…」
十蔵「・・・」

ガラッと戸が開く。目付きの悪い、職人風の若い男の町人が出てくる。名前は、重吉。

重吉「(中に向かって)じゃあ、またな…」

外に出てくる重吉。お清と、十蔵に気付く重吉。十蔵と目が合い、会釈する。

重吉「御免なすって…」

背中を丸め、足早に去っていく重吉。
店の中に入る十蔵。座っていた椅子から立ち上がるお道。

十蔵「(心配そうに)誰なんだ、今の若ぇの
 は?」
お道「(不機嫌な声で)誰だっていいだろ」

店の奥に歩いていってしまうお道。意表を衝かれ、あっけに取られる十蔵。
お清が、心配そうな顔で十蔵を見ながら、お道と重吉が飲んだ湯飲みを片付ける。

十蔵「…なんだ、人が心配してるってのに…」

○小タイトル『いま、むかし』

○同・奥の部屋

膳を並べて、二人で朝食を食べている十蔵とお道。不機嫌そうな顔のお道。十蔵も、黙々とご飯をかきこんでいる。
汁をズズッと飲むお道。

十蔵「…俺には言えねぇのか?」

汁の椀を置くお道。

十蔵「…今の男だよ。風体も目付きもあんま
 り良くはなかったな、見た所は」
お道「それはね、その通り。認めるよ」
十蔵「その野郎が、どんな筋の者なのかって
 のが知りてぇんだ」
お道「お前さんには関係ないよ」

黙って、汁を口に運ぶ十蔵。

お道「ゴメンよ。でも、そうなんだ」

黙って、沢庵を口に運ぶ十蔵。ポリポリ食べる。

○同・裏手

鉈で薪を割っている十蔵。

○同・炊事場

不機嫌な顔で茶碗や皿を洗っているお道。
安兵衛と下働きの若い男が下ごしらえや仕込をしている。
前掛けで手を拭きながら、店の様子を覗くお道。客の姿はまばら。

○同・裏手

薪割りの手を休めて、縁側に腰を下ろして汗を拭いている十蔵。お道がやってきて、十蔵の隣の腰掛ける。
お道の顔を見る十蔵。

お道「…今朝の男はねぇ、死んだ亭主の弟な
 んだよ」
十蔵「・・・」
お道「聞いてるのかい?」
十蔵「あぁ。…亭主、死んでるのか?」
お道「(頷いて)病気でね。で、その弟って
 のが、アレだよ」
十蔵「…名前は何てんだ?」
お道「重吉。…亭主は料理人でね。二人でこ
 の店を始めたんだけど。で、あの重吉はね、
 ずっと上方に行ってたんだ。一応、あいつ
 も料理人でね。修行だなんだって言ってね」
十蔵「・・・」
お道「で、今朝やってきて、ここは俺の店だ
 から明け渡せなんて、ね」
十蔵「…どういうことだ?」
お道「兄貴が死んだら俺の土地になるんだっ
 て言うのよ。…元々ワルなのよ、重吉は。
 亭主もちょっと手を焼いていてね。金をせ
 びりに来たり、修行先の親方と喧嘩して転
 がり込んで来たり…。そういう奴なんだよ」
十蔵「…その、重吉の言うことは、本当なの
 か? ここは自分の店だっていうのは」
お道「冗談じゃないよ。ここは庚七とあたし
 が二人で出して、やってきた店だよ。二人
 で一生懸命やってここまで来たんだ」
十蔵「…庚七ってのは、その、死んだ亭主の
 名前か?」
お道「…そうだよ」
十蔵「…重吉は、料理は出来るのか?」
お道「(首を振って)あいつはこの店なんて
 どうでもいいんだ。どっかの誰かに売っ払
 うつもりなのさ」
十蔵「・・・」
お道「蛆虫みたいに湧いてきやがって…」
十蔵「…面倒臭ぇならやっちまえばいいんだ。
 もっと良い地所に移るってのも案だぜ、こ
 れを機会に。それくらいの金なら、俺にも
 用立て出来ねぇこともねぇ」
お道「(激高して、立ち上がって)冗談じゃ
 ないよ! ちっぽけでもここはあたしの店
 だよ! これでも一国一城の主だと思って
 今まで必死にやってきたんだ! 軽々しく
 言わないでおくれよ! もっと良い所だな
 んて! ここはあの人とあたしが、 二人
 で漸く手に入れた店なんだよ! 場所が良
 くないなんて全部承知で、でもここしかな
 くて、でもここまでやってきたんだ! こ
 こはそういう場所なんだよ!」
十蔵「…いや、そういうつもりで言ったんじゃ
 ねぇんだ」
お道「…」
十蔵「済まない」
お道「…悪いけど、あの人のことは忘れたく
 ないんだ。死んじまったけど、まだ居るん
 だよ、ここには。あの人が。…分かってお
 くれよ」
十蔵「済まない。…そうだな。今のは、俺が
 軽率だった」

泣いているお道。

お道「…御免よ」
十蔵「いいさ。…そうか、あの、重吉っての
 には手を出させたくねぇと、そういうこと
 だな」

鼻をすすり上げながら、頷くお道。

十蔵「お道。俺は稽古に行かなきゃならねぇ。
 お前も店に出なきゃならねぇ。お清だけじゃ
 心配だろ」

頷くお道。

十蔵「帰ってからもう一遍話そう。なに、そ
 んなに大きな事にはなんねぇよ」
お道「そうかい?」
十蔵「心配すんな」

頷くお道。

○織部道場・稽古場

門弟たちが、竹刀でお互いに打ち合っている。隅で、腕を組んで立っている十蔵。

○『味さい』奥の部屋 夜

寝床に入ろうとしている十蔵とお道。

十蔵「…重吉はどこに巣を張ってんだ? ま
 だ旅籠かなんかに居るんだろう?」
お道「そうだろうねぇ。『すぐ近くに泊まっ
 てるから』なんて言ってたよ」
十蔵「なるほどね。それだけ分かれば十分。
 (欠伸をして)消してくれ…」

行燈を吹き消すお道。

十蔵の声「…お清や安兵衛には言ったのか?」
お道の声「言ってないよ。余計な心配は掛け
 たくないんだ」
十蔵の声「その通りだな」
お道の声「そうかい? なら良かった…」
十蔵の声「心配すんな…」

○飲み屋の店内

重吉と、浪人の新堂と先崎たちが酒を飲み交わしている。

重吉「…いやぁ、こんなにお強い先生たちと
 お近づきになれて、光栄ですよ」
先崎「なにが『光栄』だよ。調子いいこと言
 いやがって」
重吉「いやぁ。これで、まぁボロい店ですけ
 ど、あそこは俺の物です」
先崎「単刀直入で悪いが、金次第だからな。
 地獄の沙汰ではないが。そこは分かってお
 ろうな」
重吉「万事承知しておりますよ。あそこの地
 所を買い上げたいってクチもしっかり当て
 がついてるんですから。入る金の算段は出
 来てるんですよ。そこから、手間賃なんて
 いったら失礼ですが…」
先崎「なに、構わんよ。どんな名目だろうと、
 金は金だ」
新堂「やることもな。やる事はいつも変わら
 ん。ひと汗かくだけのこと」
重吉「へへっ。話の分かる先生方で助かりま
 す。ま、飲んで下さい」

酒を注ぐ重吉。

○『味さい』の前 早朝

真っ暗な中、通りに出てくる十蔵。

○織部道場・稽古場

朝稽古の為に門弟たちが集まっている。正次郎が現れる。

窪田「大先生。…今日は、十蔵先生はお出で
 にならないので?」
正次郎「何ぞ、来れない用事が出来たとのこ
 とでな。今日はワシが見る。不満かな?」
窪田「(慌てて)いえ、とんでもございませ
 ん」
正次郎「よし、では、始めるか」
窪田「はい」

○寺の庫裡の裏手 朝

若い僧と話している十蔵。何かを頼んでいる十蔵と、困っている若い僧。
懐から小判を一枚出し、僧に手渡す。

十蔵「…壁を塗り替えたり、屋根をふき換え
 たり、色々物入りだろう。あって困るもの
 でもなかろうに」
僧「いいえ、困ります…」
十蔵「そんなことないだろう」
僧「…住職に何て言えばいいのか…」
十蔵「なに、在りのままを話せばよい。大抵
 の方は分かって下さる」

小判をもう一枚出す十蔵。

僧「・・・」
十蔵「…頼んだぞ」

○茶店の前

茶店の軒先に座っている十蔵。欠伸をしている。お代を置いて立ち上がる。

○通り

人が行き交う通りを、腕を組みながらゆっくり歩く十蔵。すれ違う人たちの顔をジロジロ見ている。重吉を探している。

○旅籠の前

小さな旅籠から出てくる重吉。後から、新堂と先崎も。一緒に歩いていく三人。

○通り

重吉の前に、スッと姿を現す十蔵。

十蔵「ツイてたぜ。こんなにすぐ会えるとは
 な」
重吉「…なんだテメェ」
十蔵「昨日も会ったな」
重吉「あっ」
十蔵「後ろの二本差しも覚えてるぜ、お二人
 さんともな」
先崎「なんだとぉ?」
新堂「…俺もだ。あの時、後に控えていた方
 だな?」
十蔵「その通り。三人共々、ツラ貸してもら
 おうか?」
重吉「馬鹿言ってんじゃねぇぞ。テメェの相
 手してる暇なんか…」
十蔵「あの店を明け渡す」
重吉「なにぃ?」
十蔵「…ことについて、だ。他所で話そうじゃ
 ねぇか。ここは人の目があり過ぎる」
先崎「確かに」
新堂「いいぞ」
重吉「(新堂に)先生」

踵を返し、歩き始める十蔵。付いていく三人。

○墓地

先を歩いていた十蔵が足を止める。三人も止まる。

十蔵「既に承知だとは思うが、念の為言って
 おくぜ」
重吉「・・・」
十蔵「ワリィが、そんなに器用な方じゃない
 んでな。あの店をどうするか。簡単に決着
 を付けてぇ」
新堂「…どけ。お前らじゃ、ぶった切られる
 だけだ…」

何歩か進み出る新堂。

十蔵「…分かってんじゃねぇか。切るぜ(重
 吉に向かって)…テメェ、大根みてぇにぶっ
 た切ってやる」
重吉「なんだとぉ」

匕首を抜く重吉。先崎も抜刀する。

十蔵「テメェら、この辺のゴロツキなんだっ
 てな」
先崎「人聞きの悪いこと言ってくれんじゃねぇ
 か」
十蔵「嬉しいぜ。刀を抜く理由が増えた。善
 行するってのは気分がいいもんだ」
先崎「てめぇ」

抜刀する十蔵。

十蔵「抜きな…」

ゆっくりと刀を抜く新堂。

新堂「邪魔をするなよ」
重吉「先生!」

刀を構え、一気に間合いを詰める新堂。
しかし、十蔵の一振りで、右肩からバッサリと腕を切り落とされしまう新堂。

新堂「ぐわぁぁあ…」

血を吹き出しながら崩れ落ちる新堂。
新堂の体が地面に倒れた瞬間、動きを止めていた十蔵が体を翻し、こんどは先崎に襲い掛かる。

先崎「貴様ぁ!」

一瞬後、バスッと胴の腹の部分を払われる先崎。呻き声を上げながら崩れ落ちる先崎。

十蔵「心配するな。ここの坊さんには話をつ
 けてある。貴様らも人並みに供養してもら
 えることになっているからな…。あの世で
 俺を恨むなんて、無しだぜ」

震えている重吉。

十蔵「言ったろう。大根みてぇにぶった切るっ
 て…」
重吉「(震えながら)何もんだ、てめぇ…」
十蔵「行くぜ」

叫び声を上げながら、匕首を突き出して突っ込んでくる重吉。
踏み込んで刀を払う十蔵。重吉の両腕がズバッと切られ、吹っ飛ぶ。
大上段から振り下ろす十蔵。倒れる重吉。

○銭湯

風呂に浸かっている十蔵。

○『味さい』の前 夕方

通りをやってくる十蔵。朝とは、似ているが微妙に違う服を着ている十蔵。味さいに入っていく。

お清の声「あ、お帰りなさいまし」

○味さい・奥の部屋 夜

膳を並べて夕飯を食べている十蔵とお道。

お道「…結局今日は来なかったから、重吉は。
 来るなら、明日か、それとも明後日…」
十蔵「もう来ねぇかもしれねぇよ」
お道「そうなら、いいんだけど…」
十蔵「心配すんなって。お前らしくねぇよ」

フッと力なく笑うお道。

お道「…そうだね。ヤダね、全く」
十蔵「小さな犬がキャンキャン咆えてるみた
 いなもんだ、あんなもん」

頷きながら、沢庵を口に運ぶお道。

十蔵「…今朝の話、な。死んだ亭主の話」
お道「・・・」
十蔵「正直に言うとな、面白くなかったぜ。
 言ってみりゃ、お前の昔の男だ。俺にとっ
 ては。その庚七って野郎は」
お道「・・・」
十蔵「お前がその亭主を、いまだ胸の中に想
 い続けてるってのは、正直、面白くねぇ。
 ここの、この店がどうこうなんていうこだ
 わりみてぇのもな。知らなかったが、ここ
 にはその庚七ってのの残り香があるってこ
 とだもんなぁ」
お道「・・・」
十蔵「だけど、まぁ、しょうがねぇのも確か
 だ。死んだ最初の亭主と、ブラッとやって
 来た二本差しとじゃ、贔屓目に見ても俺に
 分が悪い。かと言って、俺はお前から離れ
 る気もない。さらさらな」
お道「・・・」
十蔵「…で、こう思うことにした。…あれこ
 れ、胸の内の亭主のことも全部、全部ひっ
 くるめてそれでお道って女なんだってな。
 …今、お前の目の前にいて、生きて息して
 んのは、間違いなく俺の方だ。なら、あれ
 これ全部ひっくるめて、俺の腕の中に抱い
 ちまえばいいってことだ」
お道「・・・」
十蔵「庚七とかいう亭主のこと忘れろとは言
 わねぇ。ここを動けとも金輪際言わねぇ。
 もう決めたからな」
お道「…あんた」

汁をズズッと飲む十蔵。

十蔵「…ちょっと冷めちまったな」
お道「…ありがとよ」

沢庵を口に放り込む十蔵。(F/O)


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